COFFEE SPREAD

そして、
珈琲は世界へ。

一本の木から、
世界へ広がった道をたどる。

SPREAD

海を越えた、
珈琲の続き。

エチオピアから紅海を渡り、イエメンで栽培されるようになった珈琲。

前の話では、そこまでをたどりました。

けれど珈琲は、イエメンに留まりませんでした。

港へ運ばれ、船に積まれ、海を渡り、別の土地へ。

最初は、ごく細い道でした。

一本の木。

ひと握りの種。

それが人から人へ渡り、異なる土地に根を下ろしながら、少しずつ世界の地図に線を引いていきます。

01 / MOCHA

海へ出た珈琲。

紅海に面したイエメンの港町、モカ。

16世紀半ば以降、この町は海上交易の港として存在感を増し、やがてイエメン高地でつくられた珈琲を外の世界へ送り出す重要な場所になっていきました。

港には、アジア、アフリカ、ヨーロッパから商人や船主が集まります。

インドの綿布。

アジアの香辛料。

芳香品。

新大陸から運ばれてきた銀。

その中に、珈琲がありました。

歴史家Nancy Umの研究では、やがてMochaという都市の名そのものが、イエメンを代表する収益作物だった珈琲と強く結びついていったことが示されています。

「モカ」という言葉は、いまも珈琲の世界に残っています。

けれど、その始まりは品種の名前でも、焙煎の名前でもありません。

港の名前でした。

珈琲は、港の名前をまとって、
海へ出ていった。

そこから先の旅は、一本の線ではありません。

珈琲は、いくつもの人の手を通り、いくつもの土地へ渡っていきます。

02 / INDIA

紅海の向こうへ。

17世紀には、イエメンから運ばれた珈琲がインドで育てられるようになります。

現在の遺伝研究をもとにWorld Coffee Researchが整理した系譜では、17世紀末にはイエメン由来の珈琲がインドで栽培され、その中には後のTypicaとBourbonにつながる系統が含まれていたと考えられています。

インドには、Baba Budanという聖者がイエメンから「七粒のモカ」を持ち帰り、現在のKarnataka州の山地へ植えたという話が残っています。

India Coffee Boardも、この「七粒」をインド珈琲の始まりとして紹介しています。

ただし、年代や七粒という具体的な数まで、すべてをそのまま史実として受け取れるわけではありません。

長く語り継がれてきた、珈琲の旅の物語のひとつとして見ておくのがよさそうです。

03 / JAVA

ひと握りの種から。

1696年と1699年。

オランダは、インドのMalabar海岸からBatavia、現在のJakartaへ珈琲の種を送りました。

近年の遺伝解析では、この導入が後のTypica系統を形づくる重要な分岐だったと考えられています。

そして1706年。

Javaで育った珈琲の中から、一株の木がAmsterdamへ運ばれます。

植物園で育てられたその木は実をつけ、次の世代を生みました。

World Coffee Researchは、この一株から増やされたTypicaが、後にアメリカ大陸へ広がっていったと整理しています。

ONE PLANT / 1706 世界へ続く、一本。
JAVA Batavia 1696 / 1699
一本のコーヒーノキを描いた線画 ONE COFFEE PLANT
AMSTERDAM Botanical Garden 1706

世界中に珈琲農園がある今から見ると、珈琲はとても大きな存在に見えます。

けれど、その世界への入口をたどっていくと、一本の木にまで細くなる。

世界へ広がる。それは、
最初から大きく広がることではなかった。

一本が二本になり、二本がいくつかの土地へ渡る。

そんな小さな移動が、積み重なっていきます。

04 / TWO LINEAGES

TypicaとBourbon。

同じころ、もうひとつの道も生まれていました。

フランスは1708年、1715年、1718年と、イエメンからÎle Bourbon、現在のLa Réunionへ珈琲を導入しようとしています。

そのうち定着したのは、ごく少数の木でした。

この系統が、後にBourbonと呼ばれるようになります。

一方では、YemenからIndia、Java、Amsterdamへと続くTypicaの道。

もう一方では、YemenからÎle Bourbonへ渡るBourbonの道。

現在、私たちが品種名として目にするTypicaとBourbon。

その名前をたどっていくと、18世紀初頭の船旅まで戻っていきます。

LINEAGE 二つの大きな系譜。 経路を簡略化した模式図
YEMEN Arabica cultivated in Yemen
INDIA / JAVA / AMSTERDAM TYPICA

インドからJavaへ。そこからAmsterdamの植物園へ。

ÎLE BOURBON / LA RÉUNION BOURBON

イエメンからBourbon島へ。少数の木が定着。

この時点では、まだ珈琲の世界は広くありません。

けれどヨーロッパでは、珈琲そのものの見え方が少しずつ変わり始めていました。

05 / EUROPE

珍しいものを、
知っている。

1669年。

オスマン帝国の使節Süleyman Ağaがフランス宮廷を訪れます。

この接遇を契機のひとつとして、珈琲を飲むことはフランスで流行していきました。

Metropolitan Museum of Artは、それまで薬のようにも扱われていた珈琲が、このころから宮廷をはじめ、salonやcoffeehouseで楽しまれる流行の飲み物になっていったと説明しています。

やがて、珈琲を淹れるための美しい銀製のcoffee potまでつくられます。

飲み物が変われば、器も変わる。

飲み方が変われば、振る舞い方も変わる。

当時のParisではすでに珈琲が上流社会で流行していましたが、飲まれていた珈琲豆の多くは、まだArabiaから届くものでした。

  • 遠い土地から届く飲み物。
  • まだ誰もが知っているわけではない味。
  • それを知っていること。
  • 人より先に飲んでいること。
  • 客に振る舞えること。
ヨーロッパの室内社交を思わせる版画
珍しい飲み物は、味だけでなく、もてなしや会話の一部にもなっていった。

珈琲は、少しずつ味以外のものまで背負い始めます。

珈琲を飲んでいたのではなく、
異国を飲んでいた。

見たことのない土地。

聞き慣れない名前。

遠い港から届いた豆。

一杯の珈琲には、そうしたものまで一緒に入っていたのでしょう。

珍しいものを知っている。

人より少し早く知っている。

それを誰かに振る舞える。

そこには、味覚だけではない楽しみも生まれていきました。

そして珈琲は、宮廷やsalonだけに留まりませんでした。

街へ出ると、また別の顔を見せ始めます。

06 / COFFEEHOUSE

珈琲のまわりに、
人が集まる。

17世紀のLondonでは、coffeehouseが急速に増えていきました。

1663年には、旧市街の城壁内だけでも80軒を超えるcoffeehouseがあったとLloyd'sの資料にあります。

そこへ集まったのは、商人、船主、作家、専門職の人々。

珈琲を飲みながら新聞を読み、海外から届いた話を聞き、商売を相談し、政治について話す。

店ごとに、集まる人々の関心も違っていました。

人が集まれば、情報が集まります。

そして、情報が集まる場所には力が生まれます。

1675年、England王Charles IIはcoffeehouseを閉鎖する布告を出しました。

その布告には、coffeehouseに不満を抱く者が集まり、政府を中傷する噂や報告が広められているという趣旨まで記されています。

危険だったのは、珈琲ではない。

珈琲を飲みながら、
人が話すことだった。

LondonにあったEdward Lloyd's Coffee Houseには、船主や船長、商人たちが集まりました。

どの船が出た。

どこから戻った。

何を積んでいる。

どこで海賊が出た。

Lloydはそうした海事情報を集め、店には保険を引き受ける商人たちも集まるようになります。

現在の保険市場、Lloyd's of Londonは、このcoffeehouseを起源としています。

一杯の珈琲の横で、世界のニュースが動き、商売が動き、金が動いていました。

COFFEEHOUSE / LONDON

珈琲を飲む場所が、
情報の場所になっていく。

  1. 1663 80軒を超える店

    City of Londonの旧城壁内にcoffeehouseが広がる。

  2. 1674 風刺の題材に

    The Women's Petition Against Coffee が出版される。

  3. 1675 閉鎖布告

    Charles IIがcoffeehouseを警戒する。

  4. 1688 Lloyd's

    Edward Lloyd's Coffee Houseの最初の記録。

07 / THE PLANT

一杯の外へ。

1714年。

Amsterdam市長から、フランス王Louis XIVへCoffea arabicaの若木が贈られました。

その木はJardin du roi、現在のJardin des Plantesへ託されます。

フランス国立自然史博物館によれば、当時のヨーロッパでは珈琲はまだ希少で、特に高い社会階層で飲まれる豆の多くはArabiaから届くものでした。

そして、贈られた貴重な木を育てるため、植物園では温室までつくられています。

珈琲が王への贈り物になる。

しかも、豆ではありません。

生きた木です。

ここで、珈琲への関心が少し変わります。

珍しいものを味わうことから、珍しいものを持つことへ。

飲んで終わる豆ではなく、次の実をつける木。

さらに次の木を生む種。

飲むだけでは、
足りなくなった。

珈琲への関心は、一杯の外へ向かい始めます。

その植物を育てたい。

増やしたい。

別の土地でも根づかせたい。

一本の木が持つ意味が、少しずつ大きくなっていきます。

FROM CUP TO PLANT 価値の中心が、一杯の外へ。
DRINK 飲む 珍しい味を知る
PLANT 持つ 生きた木を手に入れる
SEED 増やす 次の土地へつなげる

08 / ACROSS THE OCEAN

一本を、
海の向こうへ。

Amsterdamの植物園で育ったTypica系統の木は、さらに次の土地へ送られていきます。

1719年、Dutch Guiana、現在のSurinameへ。

1722年、Cayenne、現在のFrench Guianaへ。

1727年、Brazil北部へ。

一方、Parisで増やされた木は1720年代にMartiniqueへ渡ります。

そこからJamaica、Santo Domingo、Cubaへ。

18世紀になると、珈琲の移動を示す線は一気に増えていきます。

Martiniqueへの移動には、Gabriel de Clieuの有名な話があります。

航海中に水が不足し、自分の飲み水を珈琲の木と分け合った——。

そんな逸話です。

ただしフランス国立自然史博物館も、この航海については後世に脚色されたと思われる物語が重なっていることを指摘しています。

本当に水を分けたのか。そこは分かりません。

ただ、一本の木を海の向こうへ運ぶことに、それだけ物語が生まれた。

そのこと自体が、この植物に向けられていた関心の強さを物語っています。

COFFEE ROUTES / 17th–18th CENTURY 海を越えて増えていく線。 主要な経路を簡略化した模式図。年代は代表的な導入記録。

横にスクロールしてご覧いただけます

地図だけを眺めれば、「珈琲が世界へ広がっていった」という話です。

そして、それは間違いではありません。

けれど、木が増え、畑が増え、取引される量が増えてくると、珈琲は少し違う顔を見せ始めます。

09 / PRODUCTION

栽培が、
産業になる。

新しい土地で珈琲が育つ。

実がなる。

収穫できる。

次の木を増やせる。

そうなれば、毎回Arabiaから買う必要はありません。

Javaでは18世紀初頭から珈琲栽培が拡大していきます。

そしてDutch East India Company、VOCは、その生産と取引への統制を強めていきました。

1723年には珈琲の自由取引を禁止。

1726年には、独立した生産者へ支払う価格を75%引き下げたとする研究があります。

それに対し、生産者たちは自分たちの珈琲の木を破壊して抵抗しました。

ここまで来ると、珈琲はもう珍しい植物を育てるだけの話ではありません。

どれだけ作るのか。

誰が買うのか。

いくらで買うのか。

誰に売ることを許すのか。

生産そのものが、管理される対象になっていきます。

珈琲は、育てる植物から、
管理される作物へ。

珈琲が利益を生む。

それが分かれば、より多く、より安く、より安定して生産したくなる。

ここから「世界へ広がる」という言葉は、少し重さを変えていきます。

PRODUCTION 栽培から、統制へ。
01育つ新しい土地で栽培できる
02増える収穫と植え付けを繰り返す
03売れる市場で利益を生む作物になる
04管理する生産・価格・取引を囲い込む

10 / THE PRICE

「誰でも飲める」の
向こう側。

18世紀後半。

それまで世界の珈琲供給で大きな位置を占めていたYemenの優位は、次第に崩れていきます。

代わって急速に生産を伸ばした場所のひとつが、Dutch colonyのSuriname。

そしてFrench colonyのSaint-Domingue、現在のHaitiでした。

両地域では、アフリカから連れてこられた人々による大規模な奴隷労働が珈琲生産を支えていました。

研究では、18世紀後半にSurinameとSaint-Domingueがこうした労働の上で生産を拡大し、Yemen中心だった世界供給の構造を変えていったことが示されています。

珈琲は、より多く作られるようになります。

より遠くへ運ばれます。

そして、より多くの人が飲めるようになります。

それは確かに、珈琲文化が世界へ広がった歴史です。

けれど、その価格を下げたものを、栽培技術や交易の発達だけで説明することはできません。

JAVA

強制された生産。

VOCの統制のもとで、自由な取引は制限され、珈琲生産は強制的な供出と結びついていきました。

SURINAME / SAINT-DOMINGUE

奴隷労働による大量生産。

18世紀後半のNew Worldでは、アフリカから連れてこられた人々の労働が大量生産を支えました。

世界へ広がった。

でも、誰もが望んで
その木を植えたわけではない。

船に苗木を積んだ人。

新しい土地で育てようとした人。

商売で利益を得た人。

そして、そこで働くことを選べなかった人。

そのすべてが、「珈琲が世界へ広がった」という短い言葉の中にあります。

11 / SPREAD

広がったのに、
細くなった。

地図の上では、珈琲はどんどん広がりました。

YemenからIndiaへ。

Javaへ。

Europeへ。

Caribbeanへ。

South Americaへ。

そして、さらに世界各地へ。

けれど植物の側から見ると、少し違うことが起きています。

Ethiopiaには、Arabicaの大きな遺伝的多様性があります。

ところが世界へ持ち出されたのは、そのごく一部でした。

さらに、YemenからIndiaへ。IndiaからJavaへ。JavaからAmsterdamへ。

そのたびに、限られた数の種や木が次の土地へ移されました。

World Coffee Researchは、現在世界で栽培されるArabicaの大きな部分を支えるTypicaとBourbonの遺伝グループが、17世紀末以降Yemenから持ち出された少数の珈琲の木を基礎としていると説明しています。

SPREAD / BOTTLENECK 広がる地図と、細くなる系譜。
GEOGRAPHY 広がる
GENETIC LINEAGE 細くなる

地理的には、広がった。

遺伝的には、細くなった。

世界へ広がった珈琲。

最初は、一本の木でした。

ひと握りの種でした。

その小さな旅を繰り返しながら、珈琲は異なる土地へ根を下ろしていきます。

Java。

Réunion。

Martinique。

Brazil。

Central America。

同じArabicaでも、土が違う。雨が違う。標高が違う。気温が違う。

そこで今度は、土地による違いが生まれてきます。

FROM SPREAD TO TERROIR

人が運び、
土地が変える。

珈琲が世界へ出始めたころ、それは遠い土地から届く、珍しい飲み物でした。

人はその味を知り、名前を覚え、人に振る舞いました。

遠い世界への好奇心。

まだ知らないものへの憧れ。

人より少し先に知っていたいという気持ち。

やがて、一杯を飲むだけでは足りなくなる。

木を持ちたい。

育てたい。

別の土地でも増やしたい。

そして、作れば売れる。売れば利益になる。

そう分かれば、生産を増やし、取引を囲い込み、より安く、より多くつくらせようとする。

最初にあったものと、最後に見えてくるものは、少し違います。

けれど振り返ってみれば、その道のそばにはずっと、人間らしい気持ちがありました。

好奇心。

憧れ。

見栄。

負けん気。

商売っ気。

そして、もう少し持ちたい。もう少し増やしたい。もう少し自分のものにしたい。

そんな気持ち。

珈琲を世界へ運んだもののひとつは、
やはり、人間の欲だった。

その欲によって世界へ運ばれた同じ珈琲の木は、今度は、それぞれの土地から影響を受けることになります。

同じ品種でも、同じ味にはならない。

では、珈琲の味は、
どこで生まれるのでしょう。

NEXT STORY

03

珈琲の味は、
どこで生まれるのか。

同じArabicaでも、育つ土地が変われば、気温も、雨も、土も、標高も変わります。

次は、珈琲の味と土地の関係——TERROIRの話です。

REFERENCES

このページの
制作にあたって

淡島珈琲は、珈琲の歴史を専門的に研究している立場ではありません。

このページでは、珈琲の伝播、品種系譜、植物園、coffeehouse、植民地生産に関する研究機関・博物館・歴史資料を参照しながら、現在の一杯へつながる流れをまとめました。

初期の伝播には、史料によって年代や経路の記述が異なる部分もあります。

また、Baba BudanやGabriel de Clieuをめぐる逸話は、確認できる歴史と後世に語られた物語を分けて扱うようにしています。

植民地支配や奴隷労働については、珈琲が世界商品へ変わる過程を理解するうえで欠かせない範囲に絞って記載しています。

主な参考資料

World Coffee Research

History of Arabica

YemenからIndia、Java、Amsterdam、Americasへと続くTypica系統と、Île Bourbonへ渡ったBourbon系統の主要な伝播経路を確認するための資料。

World Coffee Research

Typica

1696年・1699年のMalabarからBataviaへの導入、1706年のJavaからAmsterdamへの一株の移動についての資料。

Coffee Board of India

Indian Coffee / History

Baba Budanと「七粒のモカ」にまつわる、インドで長く語られてきた珈琲伝来の物語を確認するための資料。

Nancy Um / Smithsonian Libraries

The Merchant Houses of Mocha: Trade and Architecture in an Indian Ocean Port

港町Mochaの交易、商人社会、都市名とcoffee tradeの結びつきを理解するための資料。

The Metropolitan Museum of Art

Coffeepot / French, Paris

1669年のSüleyman Ağaのフランス宮廷訪問と、珈琲が流行の飲み物になっていった背景、銀製coffee potについての資料。

Muséum national d'Histoire naturelle

Le café, une histoire liée à celle du Jardin des Plantes

1714年にLouis XIVへ贈られたCoffea arabica、Jardin du roiの温室、Gabriel de ClieuとMartiniqueへの伝播についての資料。

Lloyd's

Coffee and commerce / Edward Lloyd

17世紀Londonのcoffeehouse、海事情報の交換、Edward Lloyd's Coffee Houseから海上保険市場へつながる歴史を確認するための資料。

Wellcome Collection

The Women's Petition Against Coffee, 1674

1674年にLondonで出版されたcoffeeをめぐる風刺文書の現存資料。

Charles II / historical text reproduction

A Proclamation for the Suppression of Coffee-Houses, 1675

coffeehouseが政治的な噂や情報交換の場として警戒されたことを確認するための一次史料。

Comparative Studies in Society and History / Cambridge University Press

The Price of Un/Freedom: Indonesia's Colonial and Contemporary Plantation Labor Regimes

1723年以降のJavaにおけるVOCのcoffee monopoly、価格引き下げ、生産者の抵抗、強制的な生産制度を確認するための研究。

Comparative Studies in Society and History / Cambridge University Press

A Tale of Two Coffee Colonies: Environment and Slavery in Suriname and Saint-Domingue, ca. 1750–1790

18世紀後半のSurinameとSaint-Domingueにおけるcoffee productionと大規模なAfrican slave labor、Yemen中心の世界供給が変化した過程についての研究。

※歴史研究や遺伝学研究は今後更新される可能性があります。本ページでは、制作時点で確認できた資料をもとに、伝説・後世の逸話と資料から確認できる歴史を区別して構成しています。

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